生粋の官吏はその本来の職分からいって政治をなすべきではなく,「行政」を―しかも何より非党派的に―なすべきである.この非党派的な行政という原則は,「国家理性」,すなわち現存支配体制の死活的利益が特に問題になっている場合は別として,少なくとも建前としては,いわゆる「政治的」行政官についても当てはまる.官吏である以上,「憤りも偏見もなく」職務を執行すべきである.闘争は,指導者であれその部下であれ,およそ政治家である以上,不断にそして必然的に行わざるをえない.しかし官吏はこれに巻き込まれてはならない.党派性,闘争,激情―つまり憤りと偏見―は政治家の,そしてとりわけ政治指導者の本領だからである.政治指導者の行為は官吏とは全く別の,それこそ正反対の責任の原則の下に立っている.官吏にとっては,自分の上級官庁が,―自分の意見具申にもかかわらず―自分には間違っていると思われる命令に固執する場合,それを,命令者の責任において誠実かつ正確に―あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように―執行できることが名誉である.このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ,全機構が崩壊してしまうであろう.これに反して,政治指導者,したがって国政指導者の名誉は,自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり,この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし,また許されない.官吏として倫理的に極めて優れた人間は,政治家に向かない人間,特に政治的な意味で無責任な人間であり,この政治的無責任という意味では,道徳的に劣った政治家である.こうした人間が指導的地位にいていつまでも跡を絶たないという状態,これが「官僚政治」と呼ばれているものである.
政治家は,自分の内部に巣くうごくありふれた,あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない.この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで,これこそ一切の没主観的な献身と距離―この場合,自分自身に対する距離−にとって不倶戴天の敵である.虚栄心は広く行き渡って見られる性質で,これがまったくないような人間はいない.そして大学や学者の世界ではこれが一種の職業病になっている.ただ学者の場合には,その現れ方がどんなに鼻持ちならぬものであっても,普通,学問上の仕事の妨げにならないという意味では,比較的無害である.政治家だと,とてもそうはいかない.政治家の活動には,不可避的な手段としての権力の追求がつきものだからである.その意味で「権力本能」−と一般に呼ばれているもの−は政治家にとって実はノーマルな資質の一つである.ところがこの権力追求がひたすら「仕事」に仕えるのではなく,本筋から離れて,純個人的な自己陶酔の対象となる時,この職業の神聖な精神に対する冒涜が始まる.政治の領域における大罪は結局のところ,仕事の本筋に即しない態度と,もう一つ−それといつも同一ではないが,しばしば重なって現れる−無責任な態度の二種類にしぼられるからである.虚栄心とは,自分というものをできるだけ人目に立つように押し出したいという欲望のことで,これが政治家を最も強く誘惑して,二つの大罪の一方または両方を犯させる.
まず我々が銘記しなければならないのは,倫理的に方向付けられたすべての行為は,根本的に異なった二つの調停しがたく対立した準則の下に立ちうるということ,すなわち「心情倫理的」に方向づけられている場合と,「責任倫理的」に方向づけられている場合があるということである.心情倫理は無責任で,責任倫理は心情を欠くという意味ではない.もちろんそんなことを言っているのではない.しかし,人が心情倫理の準則の下で行為する−宗教的に言えば「キリスト者は正しきを行い,結果を神に委ねる」−か,それとも,人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは,底知れぬほど深い対立である.
突然,心情倫理家が輩出して,「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない.こうなった責任は私にではなく他人にある.私は彼らのために働き,彼らの愚かさ,卑俗さを根絶するであろう.」という合い言葉を我が物顔に振り回す場合,私ははっきりと申し上げる.まずもって私はこの心情倫理の背後にあるものの内容的な重みを問題にする.そしてこれに対する私の印象はといえば,まず相手の十中八九までは,自分の負っている責任を本当に感ぜずロマンティックな感動に酔いしれた法螺吹きというところだ,と.人間的に見て,私はこんなものにはあまり興味がないし,またおよそ感動しない.これに反して,結果に対するこの責任を痛切に感じ,責任倫理に従って行動する,成熟した人間−老若男女を問わない−がある地点まで来て,「私としてはこうするよりほかない.私はここに踏みとどまる.」と言うなら,計り知れない感動を受ける.これは人間的に純粋で魂を揺り動かす情景である.なぜなら精神的に死んでいない限り,我々は誰しも,いつかはこういう状態に立ち至ることがありうるからである.そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく,むしろ両々相俟って「政治への天職」をもちうる真の人間を作り出すのである.