「留魂録」は,吉田松陰が松下村塾の門下生にあてて記した遺書である.両親をはじめ身内への個人的な遺書である「永訣書」とは別に,処刑直前に江戸の獄中で書かれた.書き終えたのは処刑前日の黄昏どき.このとき,松陰,三十歳. 本書は,留魂録の全訳と解説,そして吉田松陰の史伝からなる.留魂録に託された松陰の熱い想いに,史伝にまとめられた松陰の波瀾万丈の生涯に,大いに心を打たれる.江戸末期から明治へと激動する日本の歴史に名を残した多くの志士を育てた吉田松陰.その思想家として,教育者としての態度を,我々は知っておくべきだろう. 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂 留魂録はこの和歌一首,吉田松陰の辞世の歌で始まる.二十一回猛士とは,松陰が好んで用いた号である. 1830年(文政13年),萩藩士杉百合之助の次男として,吉田松陰は生まれた.財政難にあえぐ長州藩の,貧困にあえぐ下級武士の子である.叔父にあたる養父吉田大助が若くして病死したため,大次郎は六歳で吉田家の八代当主となった.吉田松陰の初名は虎之助,吉田家を継いでから大次郎,その後寅次郎を名乗り,義卿,松陰,二十一回猛士を号した. 藩主毛利慶親のもと,江戸遊学の機会を与えられた大次郎は,江戸にて様々な人物と交友する.しばらくして大次郎は東北旅行を決意するが,このとき,同行する友人との約束を守るため,過所手形の交付を待たずに藩邸をでて旅路につく.江戸に戻った後,この重罪によって,大次郎は士籍剥奪を言い渡され,長州浪人となる. 1853年(嘉永6年),松陰二十四歳のとき,長州浪人として江戸に向かう.そのおよそ五ヶ月後,ペリーの艦隊が相模湾に姿を現す.黒船来航の報に接した松陰は,すぐさま浦賀に駆けつける.この事態に,松陰は「将及私言」と題する上書を作成し,藩に提出した.上書は藩士にのみ許されていたため,松陰は「将及私言」を匿名で提出したのだが,松陰の手によるものであることが知れ,藩邸への出入りを禁止されてしまう.ちなみに,無許可での上書は当時死罪にも値するとされており,無論,松陰はそのことを承知していた.「将及私言」において,松陰は,開港を迫るペリーが翌年再来する際に,開港をよしとしない幕府とペリー艦隊との間で戦になると予見し,その事態に備えるべきとしている. しかし,結局,幕府はペリーとは戦わず,1854年(嘉永7年)3月に和親条約を締結調印する.幕府が勅許を得ずに和親条約を結んだことで,国内の反幕・攘夷論は一気に高まった.一方,松陰は,金子重之助とともに,下田沖に停泊する米艦にて密出国を企てるが,失敗し,囚われの身となる.下田踏海事件である. 江戸小伝馬上町の獄から萩へ護送された松陰は,1854年(安政元年)10月に野山獄に収監される.獄中生活は一年以上続いたが,そこで松陰は,囚人達を相手に,外交,国防,民政などの対話を進め,「孟子」の講義も行った.この獄中生活のときから,松陰は二十一回猛士の号を愛用するようになる.この号は獄中にて夢で神人から告げられたと松陰は書き残している. 野山獄に収監されてから,松陰は読書と著述にも多くの時間を割いた.野山獄読書記によると,下獄した10月24日から年末までに106冊,さらに翌年12月15日に出獄するまでに総数554冊を読破している.出獄後も凄まじい読書を続け,安政3年に505冊,安政4年に385冊を読み,さらにこの三年間だけで45篇もの著述を完成させている. 1855年(安政2年)12月15日,松陰は野山獄からの仮出獄を許される.しかし,外出禁止,家族以外との面会禁止という幽囚の身であった.そんな松陰を慰めようと,家族は松陰に孟子の講義をするよう促す.その後半年間で孟子全篇を講じ終えた.1856年(安政3年),松陰は,孟子に続き,武教小学を講じ始め,その後,日本外史,春秋左氏伝,資治通鑑など日本や古代中国の史書を講じている.この年,倒幕論を唱える僧の黙霖との論争を経て,松陰は諫幕論から倒幕論へと大きく傾くことになる. 松下村塾を開いたのは玉木文之進で,松陰も幼年時代にそこで学んでいる.玉木文之進の後,久保五郎左衛門が引き継いだが,当時の塾は寺子屋程度の内容であった.それと平行して松陰の講義は行われていたが,やがて合併し,志士を育てる松下村塾が誕生する. 松下村塾の教育は,単に漢籍などを講読するいわゆる訓詁の学風を意識的に避けた.むしろ師弟のあいだでの時局をめぐる熱を帯びた討論が繰り返されたという.松陰はこのようにも言った.「学とは,書を読み古を稽ふるの力に非ざるなり.天下の事体に達し,四海の形勢を審らかにする,是れのみ」. 1858年(安政5年),大老となった井伊直弼は,日米修好通商条約に調印し,将軍継嗣問題に強引に決着をつけた.反対派の粛清が始まり,多くの人士が収監された.この年の11月,吉田松陰は,井伊直弼の指示により朝廷内の反幕勢力を粛正しようとする老中の間部詮勝を暗殺するために,藩政府に対して,武器調達を依頼する願書を提出した.しかし,そのような願いを藩が叶えるはずもなく,藩は吉田松陰を捕らえ,野山獄に収監するとともに,松下村塾の閉鎖を宣告した. 松陰は,間部要撃策を松下村塾に残っていた門下生と,江戸遊学に送り出した門下生とに託した.しかし,江戸の門下生から松陰に届いた手紙には,長州藩そのものを危機に追い込むことになるので,自重すべきと書かれていた.松陰の過激さを増す言動に,門下生は次第に松陰と距離を置くようになる.孤立し,孤独感に苛まれる松陰は,「吾が輩,皆に先駆けて死んで見せたら観感して起るものもあらん」と悲痛な決意をする. 1859年(安政6年)4月,幕府が松陰の江戸召還を長州藩邸に通達した.7月,江戸藩邸に到着した松陰に,評定所から呼び出しがかかる.このときの取り調べは,梅田雲浜との関係および京都御所内の落文の件であり,松陰に対する嫌疑は簡単に晴れた.ところが,松陰は自ら,間部要撃策と伏見要駕策について話してしまう.幕府側はこれらの未遂事件を把握していなかったのにだ. 1859年(安政6年)10月25日,獄中の吉田松陰は留魂録の執筆に取り掛かり,翌日の夕方に書き終わった.そして,10月27日,小伝馬上町牢の刑場で処刑される.留魂録を書き上げた翌日.三十歳であった. |