父が子に語る人間の生き方―エチカの探究

父が子に語る人間の生き方―エチカの探究
フェルナンド・サバテール,河出書房新社,1996

父が子に語る人間の生き方―エチカの探究

タイトルの通り,哲学者でもある父が息子に「すてきに生きる」ためのこつを教えようとして書かれた本だ.すてきに生きるためには,自分が自由であること,自由であるがゆえにすべての責任は自分にあることを認めなければならない.また,人間としてすてきに生きるためには,人間を人間として遇すること,すなわち相手の立場に立って考えることが大切だと説く.素晴らしい本であり,私も子供にこういうことを語ってやりたいと思う.ただ,訳者が勝手に太文字で強調している部分があるのは気に入らないし,訳もいまいちだ.「ソフィーの世界」ほど日本国内で注目されなかったのは,こんなところに原因があるのかもしれない.

「父が子に語る人間の生き方」についてのメモ

生物であれ無生物であれ,他の存在と違って人間は,自分自身の生き方を作りだしたり,選んだりすることができる,部分的には.ぼくらから見て良いと思われるもの,つまり,ぼくらにふさわしいものを選び,ぼくらから見て悪い,つまりふさわしくないと思われるものを斥けることができる.さらにぼくらは,作り出したり,選んだりすることができるのと同様,間違いを犯すことだってできる.そんなことは,ビーバーにも蜜蜂にも白蟻の身にも起こらないのが普通だ.だから,自分が何をするかにたっぷちと注意を払い,うまく生きることができるような,いわば人生のこつを手に入れようと努力することは,賢明な途だと思う.こういったこつ,よかったら生きる技術といってもいいが,これがエチカと呼ばれるものなのさ.

エチカの,第一にして不可欠な条件とは,ちゃらんぽらんな生き方をしないと,心にしっかり刻んでいること.どうせいつかは死ぬからといって,何もかもが,どうでもいいってものではないと確信していることだ.「モラル」というと,とかく命令とか「しきたり」とかの話になる.世間が持ち出してくるその手のものは,せいぜいのところ見かけだけか,ときには理由もわからずに奉られているだけではないか.だが,恐らくモラルの要諦は,何らかの規則に従うことでもなく,だからといって既成のものに逆らうことでもない.鍵は,理解しようとしてみること.ある行動がぼくらにふさわしく,他の行動がそうではないのはなぜかを理解すること.そしてまた,人生の役割は何であり,ぼくら人間にとって,人生を素敵にしてくれるものは何であるかを理解することだ.何よりもまず,自分がよしとされること,他人の前でいい子になること,他人から是認・賞賛されることに,決して甘んじてしまってはならぬってことだ.もちろんそのためには,他人と語り合い,議論し,その言い分を聴くということが必要だろう.しかし,決心するという努力は,各人がひとりっきりで行わなくてはならない.誰も君に代わって自由であることはできないからね.

ぼくらをモラルの愚者からいやしてくれるこの判断力とは,一体どんなものなのだろう? 次の四つの基本的特徴を持つ.

  1. 何もかもが必ずしもどうでもいいわけではないと知る.ぼくらは本当に生きたいと思っているのだし,それどころか,すてきに,人間としてすてきに生きたいと願っているのだから.
  2. ぼくらの行っていることが,ぼくらの心底望んでいることに対応しているかどうか,進んで注意・注目を怠らないでいる.
  3. 日常茶飯の心がけを通じて,モラルについての良い趣味を伸ばしていく.そうすれば,そんなことをするのが,おのずと嫌でたまらなくなるというふうな事柄がいくつも生まれてくる.
  4. ぼくらは自由であり,したがって,自由の行動がもたらす結果については,当然自分に責任があるのに,そこのところを隠してしまうようなアリバイを探すことなんてやめる.

この後悔ってやつは,自分が自分自身に対して感じる不満足にほかならない.自分の自由をまずく使った,つまり,人間として心底欲するかたちとは,あべこべに自由を使ってしまったときの不満足だ.そして,責任を持つというのは,こういうことだ.善に対しても悪に対しても,自分が正真正銘自由であることを自覚している.自分がしたことの結果や成り行きからは決して逃げない.マイナスはできる限り正し,プラスは最大限に活用する.責任を持つ人は,躾の悪い例の卑怯な子供とは違う.自分の行為に対し,いつ何時でも,こう請け合うことができるだろう.「そうだ,それをしたのはぼくだ!」よく見てごらん.ぼくらを取り囲んでいる世間ってものは,当の本人から責任を解除してくれる言い訳で充ち満ちているじゃないか.だっていったん,ことがまずくなると,それは状況の変化のせい,社会のせい,資本主義体制のせい,自分の正確のせい,教育が悪いせい,テレビのコマーシャルのせい,ショーウィンドウの刺激的デコレーションのせい,その他数々の抵抗しがたい有害なもののせい・・・であるらしいものね.こういった理由付けのキーワードを,今私は口にしてしまった.「抵抗しがたい」って言葉だ.自分が責任を負うなんてごめんと思っている連中は,みんな,この抵抗しがたいものの存在を信じている.広告,麻薬,食欲,賄賂,脅し,・・・その他何であれ,どうもこうも手の出しようもなく,ぼくらを押さえつけてしまうものの存在を.この抵抗しがたいものってやつがお出ましになるが早いか,人は自由であることを止めて,マリオネットになってしまう.

誰も君に代わって自由であることはできない.と同様,すてきに生きるためには,公正でなければならないことを君が理解しない限り,誰も君に対して公正であることはできないだろう.他者が君から期待しているものを肌で感じる.それを可能にするためのただ一つの途は,相手をちょっぴりでも愛すること.相手もまた人間であるからという,この理由だけでもいいから.このような愛,ささやかだが本質的な愛は,いかなる命令,いかなる法をもってしても,押し付けることはできない.すてきに生きる者は,みずから共感しうる公正,公正に基づく同情を持つことができるのでなければならないのだ.

快楽を歓喜に仕えるものにしてしまう技術,大好きが大嫌いへと落ち込んでしまうことのないように計らっている徳のわざは,古来,節制と呼びならわされている.これこそ自由な人間の肝心要の腕の振るいどころだ.

すてきな生き方の根底にある原則は,何度も言うが,人間を人間として遇すること.つまり,相手の立場に立ち,自分の利害を相対化して,相手の利害との調和をはかることができるというところにある.むしろ,こう言おうか.他者の利害をまるで君自身の利害であるかのように,君自身の利害をまるで他者の利害のように,考えるすべを身に付けるってことだ.このような力能を公正という.

私を通じてエチカが言いうる事柄はただ一つ.君自身で求め,君自身で考えよ.存分にのびのびと,いかさまやトリック抜きで,つまり,責任ある人間として.私が君に教えたいと志したのは,歩き仕方だ.私にせよ誰にせよ,君を肩車に乗せて連れて出る権利はない.でも,やっぱり,最後はアドバイスで締めようか.選ぶことこそが鍵であるからには,常にこんなオプションを選択するよう,努めてくれたまえ.選んだ後,もっともっとたくさんのオプションが可能になってくるようなオプションを.すぐに行き止まりになってしまうようなものを選んではいけない.君の前に途を開いてくれるものを選択せよ.他者へ,新しい経験へ,種々様々な喜びへと.君を閉ざし,君を葬り去ってしまうものを避けよ.ともあれ,幸運を! そして,もう一言.あの日,夢の中で突風にさらわれそうになったとき,私に似た声が君の耳元で叫んだという,あの言葉を.「さあ,しっかり! 自分を信頼するんだ!」

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